撮影という仕事の原点

AV監督になって20数年経ちます。こんなに長く続くと思っていませんでした。
自分がAVに向いているかどうかは今でもわかりませんが、どうして監督になったのでしょうか。

1980年代前半、わたしは大学生でした。
映像の仕事につこうと思っていたので、大学の映画研究会に入って自主映画を作っていました。映画は監督で見るようになっていました。好きな監督は古いところでは溝口健二・黒沢明・熊井啓・大島渚。作っていた自主映画は社会派を気取ったもので、いま思い出すと、頭でっかちでまったく人間が描かれておらず最悪のものです。
映画資金を捻出するためストリップの照明係やキャバレーのボーイのアルバイトをしていました。当時、日活のロマンポルノの若手監督作品をよく見ていたこともあり、裸や風俗産業に免疫があったのかもしれません。あるいはそういう仕事が好きだったのかもしれない。

大学在学中、いろんな映像の仕事を試してみました。助監督のアルバイトです。その中からAVに決めました。自主映画で映画作劇の才能の無さがよくわかりましたし、AVはなによりおもしろかった。ドキュメントの楽しさを知ったのです。

AV監督になったからといって女を知って撮っていたわけではありません。逆に女のことなどわかりませんでした。最初は思い入れだけで撮っていました。女の気持ちなど無視して自分が考えるスケベを撮っておりました。いま考えると女への復讐をしていたのかもしれません。
いつしか撮り方も変わり、女の子の気持ちを引き出すようなドキュメント撮影をするようになります。北風ピープーではなく太陽の暖かさでコートを脱がす方法に変わったのです。

この記事を書いた人

A.T.のアバター A.T. 監督・プロデューサー

たかつき あきら 1982年中央大学文学部卒
宇宙企画の制作、ピンク映画の監督等を経て、制作会社4D(フォーディー)に入社し風俗情報AV等を制作。その後、共同経営でカンノン・シネマワークスを立ち上げリアルなエロを引き出す淫乱系ドキュメント派監督として知られる様になる。共同経営者が病気で倒れたため、シネマユニット・ガス(通称GAS)を設立。セルビデオ転換期に「爆乳」を主軸とした作品群をリリースし、爆乳系監督の第一人者となる。