中央大学文学部に入学。大学の映画研究会に入り、ピンク映画の助監督のバイト、一年先輩で宇宙企画に入社した「さいとうまこと監督」の手伝い等を経て、AV業界へ入ることを決心。

ピンク映画制作が母体のビデオメーカー・ボルドーのプロデューサーに助監督として頻繁に呼んでもらい、後に「なるほど・ザ・消し忘れ」(ボルドー 1984年)で監督を経験。
イメージフォーラムで映像を学んだ同学年の小路谷秀樹氏に誘われ4D(フォーディー)に入社。
「ビデオスキャンダル」(VIP 1984年)という風俗嬢紹介ビデオでAV監督デビュー。実際の風俗嬢の情報や、店外で特別に撮影する本番シーンなどいくつものコーナーで構成するビデオマガジンで話題となる。
- 1984年
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個人用ビデオデッキが急速に普及し始め、アダルトビデオ(AV)の名称が一般化する。

小路谷氏が4D(フォーディー)を畳んだため退社。
(有)カンノンシネマワークスを立ち上げ。監督だけをやっていたかったため知り合いと共同経営にする。
いろいろなAVメーカーの下請けをしながら、リアルなエロを引き出す淫乱系ドキュメント派監督として雑誌等で知られるようになる。
映画のプロデューサーからお声がかかり、にっかつのキネコ(ビデオで撮影したものをフィルムに逆変換し全国の映画館で上映する方式)で「ザ・本番 湘南のお嬢様」(にっかつ 1986年)等の「ザ・本番」シリーズを6本制作。
- 1986年
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村西とおる監督の「SMぽいの好き 黒木香」が空前のヒット。

カンノンシネマワークスの共同経営者が病気で倒れたため、シネマユニット・ガス(通称GAS)を立ち上げ。
社員監督として平野勝之氏が入社。
パリ人肉殺人事件の佐川一政のドキュメンタリーAV「実録SEX犯罪ファイル」(宇宙企画 1998年)、素人男性を募集してお見合いから結婚までを2年かけてドキュメントした「素人花婿募集ビデオ 結婚してみませんか?」(V&R 2000年)等、ドキュメント色の強い作品を制作。その他、美穂由紀・桜木ルイ・小室有里・蒼井そらなどの単体作品や人妻・巨乳等の企画モノの制作も行っていた。
- 1995年
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ソフト・オン・デマンド(SOD)など新興AVメーカーが誕生し、審査団体(メディア倫理協会・略称メディ倫)を新たに興した。

レンタルショップが毎年少なくなり、レンタルメーカーからの仕事が激減したことから「面白いけど抜けないAV」が作れない状況となったため、巨乳専門メーカーVCAの下請けで制作しながら著作権を所有していた「爆乳シリーズ」(1994~)の総集編をDVD販売することから始め、セルメーカーへの転換を図る。
個人的に紹介されたNカップ風俗嬢・城エレンを撮った「爆乳JOE」がヒットする。

第一回新人監督映画祭で「ナイスですね 村西とおる」が男優賞(村西とおる)・ある視点部門 審査員特別賞(高槻彰)を受賞。
